FXとロスカットルール

その後フランスは、同じインドシナのラオスを同年7月に、カンボジアを11月に独立させ、インドシナ全域に影響力を残しつつ、ベトナム国の正当性を強調しようとした。しかしその様な中、同年10月にベトナム民主共和国の隣に共産主義の中華人民共和国が成立すると、翌1950年1月にソ連と中華人民共和国がベトナム民主共和国を正統政権と認証し、武器援助を行うようになった。この承認に対抗し、アメリカはフランスとインドシナ三国に軍事援助を開始した。 [編集] ディエンビエンフーの戦い ディエンビエンフーで戦うフランス兵詳細はディエンビエンフーの戦いを参照FX取引、FX初心者、くりっく365、FX口座開設、FX資料請求 その後もフランス軍は、ソ連や中華人民共和国からの軍事支援を受けたホー・チ・ミンが率いるベトナム民主共和国軍と各地で鋭く対立を続け、アンリ・ナヴァール将軍指揮下の精鋭外人部隊など、クリスティアン・ド・ラ・クロワ・ド・カストリ大佐を司令官とする1万6000人にも及ぶ兵力を投入し、ベトナム民主共和国軍との戦闘を続けた。 FX その様な状況下で少しずつ劣勢におかれつつあったフランス軍は、劣勢の打開と、同じくフランスが統治していたラオスの防衛を目的に、1953年11月から険しい山々に囲まれたディエンビエンフーの盆地に滑走路および大要塞の構築を開始、しかし1954年5月に、ヴォー・グエン・ザップ将軍が率いるベトナム民主共和国軍にディエンビエンフーの戦いで惨敗し事実上壊滅状態に陥り、ベトナムをはじめとするインドシナ一帯からの撤退を余儀なくされた。 FX [編集] 独立分割独立 その後フランスはベトナム民主共和国とスイスにおいて和平交渉を開始し、同年7月には関係国の間で和平協定である「ジュネーヴ協定」が成立した。これによりベトナム民主共和国の独立が承認されることになったが、ジョージ・ケナンらが提唱する、冷戦下における共産主義の東南アジア台頭(ドミノ理論)を恐れ、第一次インドシナ戦争中を通じて同盟関係にあるフランスを積極的に支援し続けたアメリカは、それに対抗して北緯17度でベトナムを南北に分割させ、南に元々はフランスの傀儡政権である「ベトナム国」を存続させた。 FX [編集] ベトナム戦争の推移 [編集] アメリカによる支援 ワシントンD.C.を訪れたゴ・ディン・ジエム大統領を迎えるドワイト・D・アイゼンハワー大統領上記のように、第一次インドシナ戦争が行われた間、ドワイト・D・アイゼンハワー大統領率いるアメリカは一貫して同じ西側で友好国のフランスを支持し、物資面から情報面に至るまで広範囲に渡り軍事的な援助を行っていた。その後フランスが第一次インドシナ戦争に敗北しベトナムを撤退して以降は、反共産主義的な姿勢を堅持した南ベトナムの歴代政権を「ドミノ理論」を根拠に、フランスに代わり軍事、経済両面で支え続けた。 FX 第一次インドシナ戦争終戦後の1955年に南ベトナムで実施された大統領選挙で、元CIA工作員でアメリカ空軍准将のエドワード・ランズデールが支援した反共産主義的な文民政治家であるゴ・ディン・ジエム首相が大統領に当選し、その後アメリカの全面的な支援を受けたベトナム共和国(通称南ベトナム)が成立した。しかしその後、ゴ大統領一族による独裁化と圧制が南ベトナム国民を苦しめることとなり、その張本人であるゴ大統領は国民の信頼を次第に失いつつあった。 [編集] 南ベトナム解放民族戦線 その機に、1960年に北のベトナム民主共和国に指導された南ベトナム解放民族戦線(ベトコン=越共、正しい略称は「NLF」でNational Liberation Frontの略である)が結成され、南ベトナム軍と政府に対するゲリラ活動を本格化させた。南ベトナム解放戦線は実質的にベトナム労働党が主導していたが、その後南ベトナム政府の姿勢に反感を持った仏教徒や自由主義者などの、共産主義者とは縁遠い一般国民も多数参加していくことになる。 [編集] ケネディによる完全撤退計画 ケネディ大統領とロバート・マクナマラ国防長官ケネディは大統領に就任直後、東南アジアにおける「ドミノ理論」の最前線にあったベトナムに関する特別委員会を設置するとともに、統合参謀本部に対してベトナムについての提言を求めた。また、副大統領のリンドン・ジョンソンをベトナムに派遣し情勢視察に当たらせた。特別委員会、統合参謀本部はともに、ソ連の支援を受けてその勢力を拡大する北ベトナムによる軍事的脅威を受け続けていた南ベトナムへのアメリカ正規軍による援助を提言し、ジョンソンはベトナム視察の報告書の中で南ベトナムのゴ・ディン・ジエム大統領を「東洋のウィンストン・チャーチル」ともちあげ全面的な支援を訴えた。これを受けてケネディは、「軍事顧問団」の派遣を増強することを決定した。その数は1960年には685人であったものを15,000人に増加させた。 しかしその後ケネディは「軍事顧問団」の早期撤退の可能性を検討した。1963年9月3日に、ケネディはテレビのインタビューに対し、「サイゴン政府が国民の支持を得るためにより大きな努力をしなければこの戦争には勝てない。最終的にはこれは彼らの戦争だ。勝つか負けるかは彼らにかかっている。我々は軍事顧問団を送り、武器を援助することはできる。しかしこの戦争―ベトナム人対共産主義者の戦い―で実際に戦い勝たねばならないのは彼ら自身なのだ。我々は彼らを支援し続ける用意はある。しかしベトナム国民がこの努力を支持しなければこの戦争には勝てない。私の見るところ過去二ヶ月の間にサイゴン政府は民衆から遊離してしまっている」と答えた。 そして10月31日には、「1963年の末までに軍事顧問団を1000人引き上げる予定」であることを発表した。そして11月の反ディエムクーデターの後には、マクナマラ国防長官が年内の1000人の顧問団の引き上げを再確認するとともに、1965年までの軍事顧問団の完全撤退を発表したが、ケネディ暗殺のため撤退計画は頓挫した。 2003年発表のドキュメンタリー映画「The Fog of War」では、ロバート・マクナマラ国防長官とジョンソン大統領の電話の録音記録が紹介され、ジョンソンがケネディのベトナム撤退に強く反対であったことの直接的な証拠を提示している(なおマクナマラ元国防長官の自己弁護の要素が強いことに注意が必要である)。アメリカによるベトナムへの軍事介入はジョンソン大統領によってより増強され、泥沼化した。 [編集] 仏教徒弾圧 マダム・ヌーとアメリカのリンドン・ジョンソン大統領1960年代に入ると、自らが熱心なカトリック教徒であり、それ以外の宗教に対して抑圧的な政策を推し進めたゴ・ディン・ジェム政権に対し、南ベトナムの人口の多くを占める仏教徒による抗議行動が活発化した。 1963年6月には、仏教徒に対する抑圧を世界に知らしめるべく、事前にマスコミに対して告知をした上でサイゴン市内のアメリカ大使館前で焼身自殺をしたティック・クアン・ドック師の姿が全世界にテレビを通じて流され、大きな衝撃を生むとともに、国内の仏教徒に大きな影響を与えた。 また、これに対してゴ・ディン・ジェム大統領の実弟のゴ・ディン・ヌー秘密警察長官の妻であるマダム・ヌーが、「あんなものは単なる人間バーベキューだ」とテレビで語り、この様な非見識かつ無慈悲な発言に対してアメリカのケネディ大統領が激怒したと伝えられた。なお、南ベトナムにおいてはその後も僧侶による抗議の焼身自殺が相次ぎ、それに合わせるようにゴ・ディン・ジェム政権に対する抗議行動がますます盛んになった。 南ベトナム政権とクーデター 同年11月にはこのような事態を憂慮したケネディ政権の事実上の黙認の下で軍事クーデターが発生し、当時アメリカのコントロールに反発して、仏教徒弾圧政策を推し進めて国内からの反発を買っていただけでなく、国際的な非難も浴びていたゴ・ディン・ジェム大統領と実弟のゴ・ディン・ヌー秘密警察長官が軍部の反乱部隊により暗殺され、ヌーの妻であるマダム・ヌーらの政府首脳陣が国外へ逃亡した。その後アメリカ軍と関係が深い軍事顧問で将軍でもあったズオン・バン・ミンを首班とした軍事政権が成立する。 左からアメリカのリンドン・ジョンソン大統領とウィリアム・ウェストモーランド将軍、南ベトナムのグエン・バン・チュー国家元首とグエン・カオ・キ首相(1966年10月)その後、親米的なズオン・バン・ミンの軍事政権はアメリカ政府に歓迎されたものの、南ベトナム解放民族戦線との戦闘には注力しなかったことから軍内部の離反を招くこととなり、1964年1月30日にはグエン・カーン将軍を中心とした勢力が再びクーデターを起こし、ズオン・バン・ミンが隣国のタイ王国へと追放された。しかし南ベトナムは、その後も1965年にグエン・カオ・キが首相に、グエン・バン・チューが国家元首に就任(1967年9月の選挙で正式に大統領に就任)し実権を握るまでの約2年間の間に13回ものクーデターが発生するという異常事態になる。 なお、追放されたズオン・バン・ミンは1968年に帰国するが、グエン・バン・チュー政権を支持せず、北ベトナム政府及び南ベトナム解放民族戦線に対しては強硬姿勢をとらない穏健派勢力として活動する。なお、ズオン・バン・ミンはその穏健派としての姿勢を買われ、最後の停戦交渉を行うことを目的に、ベトナム戦争終結前日の1975年4月29日に、1965年から10年間に渡り国家元首を経て大統領を務めたグエン・バン・チューにかわり再び大統領に就任するものの、4月30日にサイゴンが陥落、1日限りの大統領復帰となった。 この様に、南ベトナムの政府高官が、たとえ国家が戦争状態に置かれている状態にあっても軍事クーデターによる地位獲得競争とその阻止に力を注ぎ、また自軍の精鋭部隊の多くをクーデター阻止のためにサイゴンに駐留させた(その多くが次のクーデターの際に実行部隊となった)ため、アメリカがいくら軍事援助をしても南ベトナム軍の戦闘力が強化されず、また士気も上がらないという状態になっており、この様な体たらくは、ベトナム戦争発生当時からサイゴン陥落まで一貫して続くことになる。